>
>
名品ギャラリー

名品ギャラリー

 

ここでは、「指定文化財」以外の収蔵資料の中から、貴重な資料を厳選してご紹介します。

ただし、これらの資料は、常時展示している訳ではありませんので、ご注意ください。

 

陶棺
墨書銘土器「少目」
豊臣秀吉書状
鍬形蕙斎「菊図」
拾万石御加増後初御入国御供立之図
赤松麟作「渓流」
御城御座敷向惣絵図
津山景観図屏風
吉田初三郎「津山市鳥瞰図」
鍬形蕙斎「魚貝譜」

 

 

陶棺

 

 粘土を焼き固めて作った棺。6・7世紀に古墳内の埋葬施設で用いられました。陶棺には土師質と須恵質の2種類がありますが、出土している土師質陶棺のおよそ70%は美作地方から出土していて、古墳時代の美作を代表する特徴的な遺物であるといえます。

 

 

 

 

墨書銘土器「少目」

 

 津山市総社の美作国府跡から出土。「少目」とは「しょうのさかん」と読み、古代の四等官制(「守(かみ)」・「介(すけ)」・「掾(じょう)」・「目(さかん)」)の第4等官を意味しています。

これらの「守」から「目」までは中央から派遣される貴族で、美作国にはじめて「目」が置かれたのは宝亀6年(775)のことですが、記録と実際の出土遺物が確認できる貴重な資料といえます。

 

 

 

豊臣秀吉書状

 

羽柴秀吉から西子十兵衛尉という人物に宛てて出された書状です。
内容は、西子に対して、織田方のために働くように勧めるものです。当時の美作地域では、中国地方に圧倒的な勢力を誇る毛利氏と、畿内から進出してきた織田氏に属する豊臣秀吉の争いが繰り広げられていました。
この書状は、そのような争いの緊張感を今に伝えています。

 

 

 

 

鍬形蕙斎「菊図」

 

 「江戸一目図屏風」を描いた津山藩御用絵師鍬形蕙斎の作品。菊の花びらや葉の一枚一枚を丁寧に描写してあり、その写実的な表現には西洋絵画の油絵を思わせるものがあります。

 

 

 

拾万石御加増後初御入国御供立之図 

 

 松平家は、森家改易の後を受け、元禄11年(1698)に津山10万石の藩主として入封します。しかし、享保11年(1726)、2代藩主松平浅五郎が幼くして亡くなり、継嗣がいなかったため、5万石に減知されてしまいました。その後、津山藩5万石の時代は長く続き、文化14年(1817)、将軍家斉の14子銀之助を養子として迎える際に5万石を加増され、ようやく10万石に復帰することができました。

 本図の行列は、加増の翌年の文政元年(1818)、当時の津山藩主松平斉孝が参勤を終えて津山に入国する際の行列を、明治17年(1884)に描いたものです。行列をZ字のように折り返して描き、7枚のふすまに仕立ててあります。左から5枚目の中央には藩主の乗物が見え、その前方、6枚目の中段には行列の目印だった熊毛槍が描かれています。描かれた人数は、5日前出発、3日前出発、前日出発、本隊、出迎えを合わせて812人。参勤交代の行列図で、役職や氏名が書き込まれているものは少なく、貴重な資料といえます。

 

 全体図:全7枚を順番どおりに並べると下図のようになり、全長は13m余りにもおよびます。

 

 

部分図A 
上段左端が行列の先頭です。上段には、本行列の5日前に出発する宿割隊がいます。
 
部分図B 
上段左端の2つの駕籠は、3日前出発の部隊で、その直後から前日出発の道具隊になります。 

 

部分図C 

上段は道具隊の続き。中段には御用取次や近習などの駕籠が並びます。

 
部分図D 
上段は道具隊の続きで、最後尾(右上)には藩主用の風呂が青く描かれています。中段には藩主の召馬や梱包された控えの乗物が並びます。 

 

部分図E 
上段は、津山到着前日に出迎えとして派遣された先手の鉄砲・弓部隊。中段の中央を、多数の供に護衛された藩主の乗物が進んでいます。 
 
部分図F 
上段は出迎えの長柄部隊。中段左端には、津山藩の行列の目印だった熊毛槍があります。 

 

部分図G 
上段左端が、江戸から来た本隊先頭の奏者番です。右端のカーブした部分には、出発前に藩主が将軍から拝領した鷹や馬がいます。下段が行列の最後尾です。 
 

 

 

 

 

赤松麟作「渓流」

 

赤松麟作は、明治11年(1878)年に津山市で生まれ、明治16年(1883)には一家で大阪中之島に移った。16歳の時に、大阪で活躍していた画家山内愚僊のもとに弟子入りし、その後新設された東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝の指導を受けた。
 コローから印象派にいたる西洋近代絵画の動向を消化した、穏健な作風による風景画や女性像が知られる一方で、初期の代表作「夜汽車」に通じる風俗画や、あるいは歴史画に対する志向も、後年まで認められる。

 この「渓流」は、岩と水しぶきだけの単純な構成ながら、おだやかな自然の景観をすっきりと表現している。

 

 

 

御城御座敷向惣絵図

   文化5年(18088月という制作年代が記された津山城本丸御殿の絵図。文化6年正月に本丸御殿は火災により灰燼に帰した。よってこの絵図は焼失前の本丸御殿の様子を伝える重要な絵図である。作事所が制作しており、発掘調査の結果とうまく符号していることからも、内容の信憑性は高いと考えられている。

 

 

 

津山景観図屏風 
 「江戸一目図屏風」を描いた鍬形蕙斎の作品。蕙斎は浮世絵師として江戸で活動していたが、寛政6年(1794)、突如津山藩に絵師として召し抱えられた。この屏風は、蕙斎が文化7年(1810)から8年にかけて津山を訪れた時に描かれたと考えられている。

 右隻には秋の津山城下、左隻には春の二宮が描かれ、それぞれの風景の中に配置されている人物の描写は特にすぐれており、江戸時代の津山について知る上で貴重な資料である。

 

 右隻

秋の津山城下。吉井川南岸から津山城下を描いている。中央にある橋は現在の今津屋橋にあたる。

 

左隻

春の二宮。中央には戦時中に供出され、現在は失われている松並木が描かれている。

 

 

 

吉田初三郎「津山市鳥瞰図」(部分) 

大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師の吉田初三郎が描いた昭和初期の津山市街を中心とした鳥瞰図。津山駅には昭和11年にたてられた扇形機関車庫のような建物も見える。当時の津山市街のみどころが細かく描かれている。

 

 

 

 

 

鍬形蕙斎「魚貝譜」 

享和2年(1802)に出版されたもの。鯨、鯛やたこなど約60種類の魚貝を写実的に描いている。

江戸一目図を描いた鍬形蕙斎は、浮世絵師として、本の挿絵なども描いている。